自己紹介

私のアナウンス人生ストーリー 

私がアナウンスや話し方のサポート活動を

させていただいている最大の理由なのですが

テレビ朝日アスク(テレビ朝日が運営しているアナウンススクール)で、

アナウンスや話し方を学んだ時に、

<どうして、こんな大切な事を義務教育でやらないんだろうか>

という素直な疑問でした。

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私は、岡山県倉敷市広江(水島工業地帯)に、
昭和45年、1970年、6人兄弟の末っ子として生まれました。

父は転勤族で、当時の水島工業地域の、ある企業の管理職を務め、
工場を設計したり建設したりする責任者でした。

末っ子だった事もあり、親子でいるより、兄弟や、母方の祖母と一緒にいる時間が多かったように思います。

父は、熊本出身で、陸軍士官学校、戦後は、京都大学工学部を出て、本当に命がけで働き、いわゆる、まじめな誠実な人。

母は、姫路出身で、奈良女子大学を卒業後は、高校の先生として活動後、父との見合いにより結婚。
仲の良い両親として、印象に残っています。

母は、私が3歳の時に胃がんを発症し、何とか手術と努力で快方に向かいましたが、7年後の1982年、残念ながらガンの転移により、東京の病院で、49歳で亡くなりました。
(私、当時12歳、小学6年)

兄弟が多かったので、多少不安は軽減されましたが、
やはり、母親が亡くなったというのはしばらく信じられませんでした。

母は、介護や子育てなど、大変な時期を過ごしていたようです。
いくつか信仰も携わったり、すがる気持ちがあったのでしょう。
私が1歳の頃からは、信仰にも熱心になり始めました。

私は、産まれてから直ぐでしたので、あまり覚えていませんが、色々な集まりにも親と一緒に参加し、それが当たり前の人生になっていました。

小学生当時、人前で朗読したりする事もあったり。
本当のあがり症というか、やり方がわからないので、人前に出るのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。

中学時代は、暴力に暴力で返してはいけないという教えもありましたので、おとなしい子で、いじめられた時期もしばらくありました。

両親は、いわゆる高学歴の部類に入るかもしれませんが、子供たちは、あまり学歴は言わず信仰に生きるよう諭されたりしていましたので、
自分もその道を歩むのかなと深くは考えていなかったですね。

兄弟たちは、やがてそれぞれの道を歩み始め、信仰とは別の、一般の生き方を選んでいきました。

私の場合は、末っ子と言う事もあり、親の事も気がかりでもあり、しばらくは静かな生活でした。

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時は、小学6年生、母との別れに戻りますが、お見舞いに東京へ行く機会が、2度ありました。
いつか、東京で何か勝負してみたいなあという密かな願望が、この時芽生えていました。
なかなかチャンスはありませんでしたが、私が28歳頃から、結婚もせず、このまま人生終わるのかなあと相当悩んだ時期が続きました。
学歴(親に比べたら)も無い、得意な事も分からない。

小学生の頃は、友達を楽しませたり、明るい性格で、隠れて仮面ライダーや、ウルトラマンシリーズを良く隠れて見たり物まねしたりしていました。

変身願望は、結構強かったのかなと(笑)、今は、当時を振り返ってみると思いますね。

しかし、30歳が近づくにつれて、だんだん東京への目標と言うか、チャンスが無くなっていくのではないという不安が募ってきました。
ある意味、人に決めてもらった人生と言うか。
でも自分で決めていたつもりだったんですけどね。
人生のどん底でした。

やはり自分の人生、一度は何か勝負したい、何か残したい、という気持ちが沸々と湧き上がってきました。

<< 人生の転機 >>

29歳の時、意を決して、父親に小さい頃からの思いのたけを述べて、何とか納得してもらい、数年だけ、東京で何とかやってみろと、いう事で合意しました。

数年たって、全然芽が出なければ、しょうがない、帰郷して親の手伝い(自営)をするように、そんな感じです。

では、東京で何をするのか、したいのか。
ボランティアで、良く司会や朗読は頼まれている自分がいました。

母親世代の女性からは、とっちゃん、声が良いわねえ、とほめられて有頂天になったり、褒められて頑張っていたのはありました。
しかも、子供の頃のあがり症は、練習と共に段々軽減されたり、人前に出るのが、段々苦ではなくなってきていました。
(もちろん個人差はありますが)
流暢には読める、話せる(プロの世界ではまだ全然通じないレベルですが)、何か変な自信がある。

親も人生色々経験していたので、どうせやるなら本気で出来る事をやりなさいと言われたような気がします。

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<< 20歳の頃は、スピーカーの音の検査員 >>

地元の高校を卒業後は、ONKYOの子会社の岡山オンキョーにて、スピーカーの製造と、音の検査員を3年ほど勤めました。
ラインのスピーカーの箱詰めから、修理、音質の検査や不良品の選別など、周波数やリズム感など、行っていました。

この経験が後にアナウンスや講師に役立つとは夢にも思いませんでした。

水泳会場などの音量や音質なども気にしながらアナウンスが出来るのは、この時の経験が活かされてるかなと思います。

スピーカーの音質の検査員出身のアナウンサーは、ほぼいないのではないかなと思います。
(普通は、大学からそのままアナウンサーになる方がほとんどですよね)

生徒さんの、発声の時にも、胸の響かせ方や、声の通り具合など、声や音に敏感になったのは、今では大変役立っています。

最近は、サラリーマンの方も良くレッスンに来られますので、工場勤務の方の気持ちも分かりますしで、経験は無駄ではなかったと思います。

<< 東京への決意 >>

小学時代、実はお隣のお姉さんが、RSK(山陽放送)のイブニングニュースに出ておられました。(後で聞くと、社員ではなく、フリーのような形かだったかもしれませんが)

私が、一人でボール遊びをしていると、そのお姉さんが、笑顔でこんにちは~~~
と、爽やかに声をかけてくれるじゃあーりませんか(笑)

普通、憧れますよね(笑)
はい、憧れまして、アナウンサーっていいなあ、もてるんだろうなあと勝手に思っていました。

当時は、自分がアナウンサーをするとは夢にも思っていませんでした。

しかし、人生の転機で、このことを思い出すとは・・・

はじめは、アナウンサーは高学歴の、大卒の方しかなれないと思い込んでいましたので、朗読が好きと言う事もあり、テレビやラジオの、ナレーター、声優、と言うジャンルを片っ端から調べました。

図書館で調べたり、(当時はまだネット情報も少なく)、声優雑誌を買いまくったり、NHKの講座を調べたり、今ほど情報はありませんでした。

やはり、情報の中心は東京だと感じます。
(今でも感じます)

探していたある日、テレビ朝日の今も続いている
お昼の情報番組  「 ワイドスクランブル 」
で、大下容子アナウンサーが、

テレビ朝日が、アナウンサー、声優を育てるスクール、テレビ朝日アスクを開講しますよと、宣伝をしていたのを、姉が見つけてくれました。

自分の人生の再スタート。
自分は、まあまあ真面目だとは思うので(笑)、他局はさておき、テレビ朝日のイメージは、自分の中では良かったので、思い切って資料請求しました。

田舎者の自分が、東京の六本木のテレビ局関係の、しかもアナウンサーや声優など、いつも声を聞いている先生にビビラずに付いて行けるだろうか、という不安はありました。

しかし、東京へ行くと決めたら行くんだと。

父は戦時中の人なので、

「死ぬ事以外、大したこと無い」
(今も座右の銘ですが)

が口癖でしたから、やるしかないと覚悟を決めて、2000年から、テレビ朝日アスクで、声優基礎科からスタートしました。

<< 東京生活スタート >>

当時、兄が海外に出張中で、アパートを3ヶ月だけ使っていいぞということになり、1月から、地下鉄東西線の原木中山、という静かな駅からスタートしました。

4月からは、隣の妙典駅の江戸川沿いのアパートを借りて、毎日江戸川の土手を走っていました。

テレビ朝日アスクの初期のレッスンを受けながら、3ヶ月は仕事をせずに、関東の様々なところへ行く事にし、東京タワー、新宿、渋谷、世田谷、江戸川、浅草、池袋、水戸、鎌倉、銚子、千葉から船橋まで歩いたり、埼玉、横浜、横須賀、などなど、とりあえず関東近郊を回りました。

その間、声優基礎科は、発声の基礎から、歌、体験レッスンなど、まずは基礎からじっくりレッスンでした。

アスクの方針が、基礎からみっちりやる、ということを重点を置いていたので、私にとっては良かったです。

当時、ナレーションをやりたいですと、面接では言っていましたが、ナレーションは、

「 声優の大御所様がやるんだよ 」

と言われていました。

ガーン・・・

しかし、役者に向いていないと思ってはいましたが、でもナレーションをするためには、声優のレッスンを頑張らなければと、一生懸命にレッスンに励みました。

当時は、まだ教室は、今のように毎日使っているわけではなかったので、
古閑君、教室が空いていたら、自主練習で使っていいよ。・・・
わざわざ上京した身からすると、ものすごくありがたい申し出でした。
(今の個人レッスン場を持つきっかけは、この自主練習が出来ると言う環境が必要であるとの意識からでした)

家では、大声は出せない、台詞の変な声や、内容は家では出来ない。
レッスン場だと緊張感が違う。
一流の先生と触れ合えるチャンスがあるかもしれない、など
青山墓地の近くでしたが、よく以前の青山のアスクのレッスン場には通いました。

声優基礎科、研究科、専科、特別専科、吹き替え特別クラス、ラジオドラマ、ナレーター専科、ナレータープロ専科、
そしてアナウンサー専科。

3年ほど通いながら、テレビ朝日アスクマネジメント、というプロダクションにも何とか合格して、プロのスタートを切ることが出来ました。
初代校長の長先生とは、今でも交流させていただき、感謝しかありません。
色々と励ましをいただいてます恩人です。

<< 声優の壁 >>

運よく、一度、2004年に、日曜洋画劇場の

「エイリアン2」

の吹き替えのお声が掛かりました。

新人は、普通最初は台詞は無いのですが、何とかテレビ朝日と言う事もあり、少しだけ台詞と、あとは 「ガヤ」という周りの声の雰囲気、あと、エイリアンに殺される叫び声、など、
100回以上は、もちろん練習して行きました。

ビデオをあらかじめいただいて、家で練習するのですが、なかなか本番ではイメージどおりにはいかないんですね。(センスある方は別ですが)

六本木のムービーテレビジョンで、マイク3本、映像2つ。

椅子が回りにあるので、まずは先輩出演者、スタッフさんに挨拶。
主役、大御所、ベテランの方が座られてから最後に新人が座る。

声だけで演技なので、あまり体は動かせない。
しかも、先輩の台詞の間に、音を立てずに寄って、隙間でマイクに入って、直ぐよける。
皆さん、職人技で、演技の基礎が出来ている方は、やはり、俳優、声優、どちらでも出来ます。

洋画の吹き替えは、当時俳優出身の方がほとんどで、アニメは声優の方が多かったですが、もちろん俳優の方もされます。

休憩時間と、本番のスイッチの切り替えも流石だなと。経験と地力が違うなと感じました。
多くの方は、今でも一線で活躍されている方ばかりです。

声優では、家弓家正先生、有川博先生、江原正士先生、加藤治先生、青木和代先生、兵藤まこ先生、

ナレーションでも、家弓先生をはじめ、音楽プロデューサーの牛窪先生、アナウンサーーの中里先生、洋画の吹き替えでも、ディレクターの先生、

アナウンサー専科では、現在のアスクの重鎮、松苗慎一郎先生(今でも交流をもってくださっている恩師です)をはじめ、

テレビ朝日の多くの現役アナウンサーの先生のレッスンは、いまの私の財産になっています。

当時の石橋幸治ゼネラルマネージャーに、アナウンサーの勉強もしたいと申し出たところ、古閑さんなら専科からで大丈夫、と言われ、専科から受けさせていただけたのも大変助かりました。
今の、多くの現場のきっかけは、アナウンサーも出来る、という事で、仕事の幅が広がったので、今は感謝しかありません。

師匠と弟子、という関係もありですが、一流の方は、型、基礎はきっちりやりなさいと言いますが、他は、一流のものをとにかく見ろ、感じろ、触れろ、と言われます。

とくに、29歳からやって遅すぎるんだから、何でも一流を見ろと良く言われていました。

歌舞伎、ミュージカル、オペラ、狂言、舞台、朗読、落語、漫才、講談、マジック、野球、など色々見に行きました。

特に一時期、浅草演芸ホールにしょっちゅう通っていたのを思い出します。
昭和のいるこいるさんは、大好きでしたね(笑)

声優、俳優の一流を肌で体感し、壁の高さを痛感しました。

<< バイトはバイク便 >>

2000年から、4年ほどは、バイク便で何とか生計をたてていました。
(色々なところに行ける、人間観察が出来る、多少自由がきく、発声練習や実況の練習が出来る、ほか)

声優の授業では、人間観察をするよう言われていたので、バイク便は結構面白かったです。
芸能人にも会えましたし、大手企業や、芸能プロ、官庁、大手金融機関、マスコミ、撮影所、建設現場、モデルの撮影現場、議員会館、など、
普段、一般人では立ち入れないところまで入れるので、東京の心臓部を体験出来ました。

本当に、東京のメインストリートは、ほとんど地図が無くても分かるようになりました。
今は忘れていますが、今ならグーグルマップもありますが、当時は地図を頼りに行っていました。
23区はもちろん、千葉、埼玉、神奈川、群馬、茨城、栃木、静岡、山梨、長野、
最高は今でも忘れない、片道350キロの福島の会津若松、

高速道路は、走りながら発声や、実況、文字を見つけて喋る読むの繰り返し。
直接、着替えを荷物箱に入れて、アスクへレッスンにいったり、お昼の番組のナレーション収録に行ったこともあります。

4年半で、13万5千キロ、地球3週半くらい、毎日給油してましたので、1日平均200キロほど走りました。

今は、自動車がメインなので天国です(笑)

<< 2004年 人生の転機、水泳との出会い >>

エフエムえどがわのラジオパーソナリティ、単発のテレ朝さんのナレーションなど、コツコツと実戦は積んでいましたが、バイクに乗っていた夕方、忘れもしません、新宿の街中を走って帰ろうとしていた時、1本の電話が入りました。

当時のアスク、ゼネラルマネージャー松苗慎一郎様からじゃあーりませんか(何かしたかなあ・・・)と、不安で出てみると、

あ~、古閑君、ちょっとね、来週から水泳の日本選手権があるんだけど、場内アナウンサーしてみない・・・と軽く言われました(笑)・・・(驚)

は、はい、頑張ります・・・・

色々、新聞とかにも水泳ニュース出るから、読んでおいてね・・・・

北島康介も出るからね、がんばってね・・・
来週・・・
聴くと、NHK全国放送で、テレビ朝日は世界水泳など、放送があるけど、
NHKさんの時は誰かいませんか、と言う事で日本水泳連盟様にご紹介をいただきました。

帰りに、東京辰巳国際水泳場を見に行ったのを覚えています。(冷や汗、デカイ)

マジかよ~~~~と思いましたが、ここで逃げたら上京した意味がないと覚悟を決めて、色々資料を探し始めました。

ある意味、これで失敗したら悔いは無い、その時は帰郷する時か、くらいの覚悟で臨みました。

NHK全国放送で、何かあったら・・・

リハーサル当日、覚悟を決めて、
アナウンサーの古閑です。よろしくお願いします。

水泳関係者、テレビ朝日関係者、の皆様とは初対面で、人間関係もこれから。
重鎮の皆様にも挨拶、責任者の方からは、元気良くね・・・とかなりのプレッシャー(冷汗)

2004年から、オリンピック選考会は、一発選考。
盛り上げアナウンス。

選手たちのリズムを乱したら、タイムが伸び悩んだら、俺のせい???

色々悩みましたが、入場シーンの原稿もディレクターの方と打ち合わせして考えて、
最初は明け方まで原稿を考えていました。
寝坊も出来ない。寝不足の毎日でしたが、緊張感がはるかに上回る現場。

とりあえず一生懸命、声を張り上げて、オリンピック行ってくれ、行ってくれ、と願いながら、必死で叫んだのを思いだします。

下手でしたけどね(笑)
更に、大会の中ごろには、

古閑さん、オリンピックの代表記者会見があるから、そちらの司会も宜しくね、と。・・・・(驚)

大会だけでも、プレッシャーなのに、終わった翌日は、代表選手の記者会見。

東京プリンスホテル。

名前負けしそうになりましたが、やるしかないと腹をくくり、月曜日は早めに行き、近くの芝公園で、何度もイメージトレーニングしたのを覚えています。

関係者の皆様も協力的で、本当に今は感謝しかありません。

そして経験は財産になっています。

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8月のアテネオリンピック本番、あの、

ちょ~気持ちいい、

をテレビで見た時のインタビュー、嬉しかったですね。

あれから、水泳界に15年以上お世話になるとは思いませんでした。

多くのご縁、支えや励ましにより、今日まで水泳アナウンスに携わらせていただいてます。
感謝しかありません。

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少しずつ、ナレーションや、韓流スターのイベント司会(ピ、RAINさん)、
ご紹介の企業様のイベント司会、など少しずつ順調にお仕事が増えていた頃

実家では、高齢の父が仕事を頑張っていましたが、家族の協力にも限界が近づき、小さな会社でしたが、たたむのかどうかで議論が出てきました。

母は早くに亡くなり、再婚せずに父親だけで何とか6人を育てたのはありがたい気持ちでした。

2006年頃、ついに岡山に帰郷し、父の仕事を手伝いながら、何とか立ち直ったら、東京へ戻ろうと言う思いでした。

テレビ朝日アスクマネジメントにも所属していましたが、事情を説明し、いったん岡山に戻る事にも理解を示してくださいました。

何とか、うまく立て直したり、人が繋がったら、東京へ戻りたい意思もお伝えしていました。

しかし、物事はそう簡単には運ばず、帰郷後、仕事のスタッフさんとも、片手間みたいな感じと捉えられたか、
なかなか直ぐにはなじんでもらえず、人間関係も苦しい時期もありました。

何とか、以前の協力会社さんや、以前お世話になっていた方にも挨拶しにいき、何とか仕事は繋がっていました。

疲れて寝ている時に、荒川静香さんの金メダルの映像が何度も流れ、慰められながら感動したのを今でも覚えています。

何してるんだろうなぁ俺、と言う感じになった時期もありましたが、今は何とかしようと言う気持ちで、コツコツ仕事をこなしていました。

2007年は、岡山に帰っていましたので、競泳の日本選手権は、全国放送ですから、東京のアナウンサーに変わるのかなあ、という覚悟はしていました。

しかし、交通費も出していただけて、古閑さんで良いでしょう、
というゴーサインは、涙が出るくらい嬉しかったですね。

恩返しのつもりで、アナウンスしていました。

北京オリンピックの代表選考会、強い北島康介が帰ってきたレース、
場内も大歓声で、生きていて良かったなあ(笑)
というくらい、気合を入れてのアナウンスでした。

相変わらず空回りするアナウンスもありましたが・・・(苦笑)

北京の2冠も、テレビでの感動は忘れません。
相当のプレッシャーは、想像出来ないものです。

北島選手は、水泳界にとっては宝ですが、私にとっても恩人です。

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また地元に戻り、何の変化もなく、コツコツと仕事をしていました。

岡山では、マスコミの人脈はほとんどなく、声の仕事をする事はほとんど無く、2年間ほどは、小さなイベントの司会などは頼まれましたが、

競泳の日本選手権(NHK全国放送)しか、出番はありませんでした。

あまり、営業かける気力もありませんでした。
紹介いただいた仕事は大切にしよう、と言う感じでした。

2008年頃、岡山地域でも、経験を活かして、アナウンサーや話し方のレッスンを出来る環境が無いか探していました。

幸い、知人の紹介で、リビング岡山さんの、発声話し方講座を始めさせていただく事になりました。

これまで、10年ほど続き、もう600人以上は、レッスンに来てくださったと思います。

カルチャー講座ですから、アナウンサースクールの1/5位の金額だと思います。

関東出身の生徒さんは、東京なら、6回で1回分ですよね。
先生だったら、めちゃ安いですよね、と嬉しいことを言ってくださる方もおられました。

ただ岡山では、知名度は全く無く、コツコツの積み重ねしかないなと覚悟はしていました。

しかし、東京の金銭感覚は、岡山で通用するはずもなく、良心的な金額の講座(自分では思っています)で続きました。

しかし、生徒さんの中には、医者、経営者、管理職、士業、モデル、介護、看護、テレフォンオペレーター、講師、航空管制官、学校の先生、カウンセラー、OL,主婦、牧師、個人事業者、整骨、美容、建設、設計、料理研究家、などなど

様々な立場の方が参加され、お金よりも人にダイレクトにお役に立てることが嬉しくて、自分の知らない世界の方ばかりなので、新たな発見の連続でした。

好きなことでお金が得られる事は、金額の大小ではなく、嫌なことではなく、楽しんで仕事が出来る喜びを感じました。

生徒さんからは、多くの講演や、セミナー、企業研修、CMナレーション、など様々なご紹介をいただき、今もリビングさんには感謝しています。

営業が苦手で、あまり営業した事はありませんが、ほとんどの仕事は、紹介での仕事でしたので、ありがたいの一言です。

明石家さんまさんが、東京で売れている今でも、関西の番組を大切にされているのは流石だなと思います。

東京も大切ですが、地元岡山倉敷地域でのご縁も、やはり大切にしていかなければと思いますね。
今の時代は、インターネットで上手にPRすることが主流になっています。
(今はインターネットPR勉強中です)

自分はカリスマではありませんが、(イエスキリストか、お釈迦様か、空海様レベルの方はカリスマだと思いますが)
まあ、少しアナウンスの専門的な経験があるので、困っている方のお役に立てればなあと、いつも思っています。

岡山で、3000人の方のご縁があったのは、大変ありがたい事でした。
(岡山県は商売がやりにくいと言われる方もおられますが、その岡山で3000人のご縁が出来た事は私にとっては自信になりました)

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2008年頃から、徐々に倉敷の地元商工会様や、岡山の商工会様、紹介の商会で、様々な企業団体様での講演、セミナーなど多くの研修会のご紹介をいただきました。

<< 商工会、産業振興財団、企業、団体様の研修やセミナー、講演会のご縁に感謝 >>

なかなか、自分では営業する事が苦手で、ほとんどの仕事は、紹介からの仕事でした。

G7倉敷教育大臣会合のレセプションの司会や、日本女性会議の司会などは、地元のラジオパーソナリティの方の紹介だったり、CMナレーションだったり、様々な研修や講師も、すべて紹介のお仕事で本当にありがたかったです。

中には、300人規模の会社の研修や、50名の社員の社員総会の後の講演会など、50名から100名参加の経営者の会や、団体様のイベント後の講演、地元のライオンズクラブ様、ロータリークラブ様、医師会や、国立病院、保護司、保育園、整形外科、夜のお仕事、歯科衛生士、通信事業など、様々な業界のご縁をいただきました。

また、岡山県内のCATV様のアナウンス研修など、現在まで5社の研修をさせていただきました。
紹介の繋がりで、アナウンサーの方々にも、テレビ朝日アスクの経験で、ニュース、ナレーション、印象、ボイストレーニングなどのアドバイスをさせていただいてます。

現在は、その経験を活かし、少人数制の、本気で話し方やアナウンスに取り組む方々の講座や、個人レッスン、研修をさせていただいてます。

<< 紹介の仕事、リピートの仕事 >>

地元だけでなく、東京や全国規模のイベントにも呼んでいただき、リピートの仕事もいただきました。

KONAMIスポーツクラブ様とは、2013年より2019年現在まで、競泳KONAMIオープンの場内アナウンスをさせていただいてます。
日本水泳連盟の重鎮の方からのご紹介をいただき、現在も続いています。

山口の競泳きららカップも、2015年頃より、岡山の水泳関係者のご紹介で、現在もアナウンスを続けています。

現在は一部上場されました、東京のプロパティエージェント株式会社様は、年末のオーナー様謝恩パーティーにて、10年ほどご縁をいただき、ホテルニューオータニを始め、東京の中心部のホテル会場で、司会の大役をいただきました。

水泳の日、リオオリンピックパブリックビューイング、など、様々な場面で呼んでいただき、本当に紹介のありがたさを日々感謝しています。

<< 声のコンプレックスを抱えている方の多さにビックリ !!>>

これまで、個人レッスン、講座など比較的マンツーマンに近い形でアドバイスさせていただいた方で、声のコンプレックスを40年引きずって来られた方もいます。

小学生の頃、可愛らしい声をしていたのに、それを同級生から、”宇宙人みたいな声” と言われ、ずっと声にコンプレックスをお持ちの女性の方がいらっしゃいました。

私のボイストレーニングと、スピーチのレッスンを重ねた結果、同窓会のスピーチで、●●さんの声って落ち着いて素敵な声ね、
と言われたそうです。

しかも、” 宇宙人みたいな声 ”と言ったその張本人が言ってきたそうです(苦笑)

言った本人は覚えていませんが、言われたほうは40年、ずっとコンプレックスだったみたいでした。
私の中では個人的に好きな声の方でしたけどね!

何事も、言ったほうは軽い気持ちで言ったのですが、言われた方は覚えている・・・・・

確かに、嫌な事、批判的なことは誰も言われたいとは思いませんが、一人だけの感想や意見、批判は、あくまで一人分の意見であることを意識しないといけないですね。
あたかも、一人の感想が、みんなの感想のように感じてしまう人間の定め・・・

私の言葉も生徒さんのココロに残る場合があることをいつも意識して、気をつけています。

私の基本的な性格は、良い所を出来るだけ探し、それを言葉で伝えるように。

相手を褒めてから、修正点を伝え、改善点が治れば、さらに長所が伸びる旨を伝えています。

(続く)
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